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50代の読書は、もう遅い?集中力が続かない大人が、もう一度本と出会う話

(バー「SECOND SEMESTER」。会社帰りらしい男性三人が、少し離れた席で飲んでいる。上司らしき50代が一人と、部下が二人。私はカウンターでグレンフィディックを傾けながら、聞くともなしに聞いていた)

「うちの息子がな、バイトの面接で、趣味欄に『読書』って書いたら笑われたらしいんだよ」

「笑われた? なんでですか」

「今どき読書が趣味なんて、って感じらしい。俺はいいと思ってるんだけどな。今時はそうなのか?」

「どうなんですかね……。自分の頃は、まあアリだと思ってましたけど。もっと若い世代はどうなの?」

「う〜ん、あまり書く感じじゃなかったかもしれません。周りにも、趣味が読書って人、あまりいなかったですし」

「でも息子さん、すごいですよね。若いのに読書って」

「そうなんだよ。小さい頃に読ませようとしたときは、そんなに読まなかった記憶があるのに。いつの間にか、って感じでな」

「……息子さんって、拓海君ですよね?」

「あれ? 知ってたっけ」

「去年の会社のバーベキュー、あったじゃないですか。あの時に会ったんですよ」

「ああ、連れてったな」

「あの時、僕が一番歳が近そうだったんで、話しかけてみたんです」

「あの時、うちのもだけど、小さい子ばっかりで、ちょっと浮いてたもんな」

「たわいもない話をしてたんですけど、そのうち、今やりたいことが分からない、って相談されて」

「お前に?」

「そう思ったんですけど、向こうからしたら、こんな俺でも社会に出てる、ちょっと先輩なわけですよ。数年後には自分も就職なのに、二十歳過ぎてもやりたいことが分からなくて、焦ってるって」

「それで、何てアドバイスしたの?」

「読書です。本を読んでみたら、って勧めました」

「読書? ちょっと意外だな」

「でしょうね(笑)。自分も、そうだったんで。図書館に行って、何でもいいから読み始めてごらん、って」

「……それでか。カミさんが、あの子が急に本を読みだして、スマホばっかり見てるのを注意することがなくなった、って言ってたんだ。突然どうしたのかと思ってたが……君が勧めてくれたのか」

「ええ。でも、趣味って書くくらい続けてるとは、すごいですよ」

「さっき、自分もそうだった、って言ってたな。どういう……」

「はい。話せば長くなるんですけど……」

「あ、もうこんな時間だ。部長、終電間に合います?」

「お、ほんとだ。続きは明日、聞かせてもらうか。ここは俺が出しとくよ」

「あざっす」

三人は、少し慌ただしく店を出ていった。


壁の黒板には、今週の言葉。

「自分には自分に
与えられた道がある」

静かになった店で、私はグラスを傾けていました。あの青年も、本に何かを救われたのでしょうか。

「読書に救われる、ってどういう事だろうね」

誰にともなく、そうつぶやいた私に、グラスを磨いていたマスターが、少しだけ手を止めて言いました。

「実は、私がそうでした……」

いつもは客の話を聞くばかりのマスターが、自分のことを口にするのは、珍しいことでした。


読書は、本当に「時代遅れ」なのか

拓海君が面接で笑われた、という話。少し、不思議な気がします。

たしかに、今は娯楽が溢れています。動画も、ゲームも、SNSも、指一本で無限に楽しめる。知りたいことがあれば、検索すれば数秒で答えらしきものが出てくる。そんな時代に、何時間もかけて一冊の本を読むなんて、たしかに効率は悪い。「時代遅れ」と笑う人の気持ちも、分からなくはありません。

でも、と思うのです。

検索で出てくるのは「答え」です。本が与えてくれるのは、それとは少し違う。著者が何年もかけて考え抜いた、思考の道筋そのものです。結論だけをつまむのではなく、その人がどう迷い、どう考えたかを、時間をかけて追体験する。これは、効率とは別の価値です。

そして面白いのは、笑われたはずの拓海君のような若者が、ちゃんといるということです。あの青年が読書を勧め、拓海君はスマホを置いて本を開くようになった。時代遅れと笑う声の隣で、静かに本を手に取る若者もいる。読書は、廃れたわけではないのです。


50代が今、本を読み直す意味

若い頃にも、本は読みました。でも、あの頃の読書と、50代の読書は、まるで違うものだと感じます。

若い頃の読書は、知識や教養を「仕入れる」ためのものだけではなく、単純に楽しいから、面白いからと、いくらでも読めたものでした。時間を忘れて物語に没頭し、次のページをめくる手が止まらない。そんな熱を、誰もが一度は持っていたはずです。

50代の読書は、それとも違います。

同じ一行でも、響き方が変わっているのです。若い頃には読み飛ばしていた地味な一文が、いくつもの経験を積んだ今、妙に染みる。「ああ、これはあの時のことだ」と、自分の来し方と重ねながら読む。答えを探すためではなく、これまでの自分を確かめ、これからの問いを深めるために読む。それが、大人の読書です。

経験は、読書の邪魔にはなりません。むしろ、経験があるからこそ読める本がある。50代は、読書において"遅れた"のではなく、ようやく本当の読み頃を迎えたのだと、私は思っています。


マスターと、一冊の本

ここで、あの夜にマスターが少しだけ話してくれたことを、書いておきたいと思います。本人が多くを語らない人なので、聞けた範囲の、その断片だけを。

マスターには、人生が止まっていた時期があったそうです。詳しくは聞きませんでした。ただ、何年か、社会からドロップアウトした時期があった、と。外に出られず、自分を責め、時間だけが過ぎていく日々。誰にでも起こりうる、けれど本人にとっては出口の見えない夜が、確かにあったのです。

その暗がりに、ある日、父親が黙って一冊の本を置いていったそうです。

松下幸之助の『道をひらく』。真新しい本ではなく、父親自身が昔、繰り返し読んだであろう一冊でした。角は折られ、ページは手擦れている。父の時間が染み込んだ本です。父は、多くを語らなかったといいます。ただ一言、こう言い残して部屋を出ていった。

「お前は、たまたま誘惑に負けて失敗しただけだ。まだ何も失ってはいない」

彼は、その本を少しずつ読み始めました。一気にではなく、一日に数ページ。短い随想を集めた本で、難しいことは書いていない。ただ、一つひとつの言葉が、倒れた人間をそっと立たせるように書かれていた。あの黒板の「自分には自分に与えられた道がある」も、その本の中の一節です。

そうして、その一冊と過ごすうちに、数ヶ月が過ぎました。ある日、彼はようやく、図書館へ足を運ぶことができたそうです。外に出られなかった人間が、一冊の本に背中を押されて、外の世界へ一歩踏み出した。図書館で、彼は手当たり次第に本を読み始めました。心理学、哲学、歴史、経済。誰かに言われたわけでもなく、初めて「自分で知りたい」と思って読んだ。その時間だけは、自分を責めることを忘れられたそうです。

「読書が、救った……か」と私がつぶやくと、マスターは少し笑って、こう答えました。

「救う、というより……こう思えたんです。たとえ独りでも、学ぶことはできる。誰かに教わらなくてもね。学ぶことをやめない限り、人はまだ終わっていないんだ、と」

あの青年が拓海君に本を勧めたのも、たぶん、同じ何かを知っていたからでしょう。本に一度でも救われた人間は、それを次の誰かに手渡したくなる。あの青年も、父から本を受け取ったマスターも。そしてその父もまた、かつて誰かの、あるいは自分自身の一冊に支えられたのかもしれません。本は、そうやって人から人へ、手渡されていくものなのでしょう。


「読みたいのに、読めない」——50代の、集中力の壁

とはいえ、ここで正直な話をしなければなりません。

「本を読もう」と思っても、これが50代には、なかなか難しいのです。私自身がそうでした。

本を開くと、まず気持ちがざわついて、落ち着かない。数ページ進むと、なんだか先へ進みたくない、本を閉じたくなる衝動に駆られる。気づけばスマホに手が伸びている。若い頃は、読み始めると気づいたら朝になっていた、なんてこともあったのに。あの頃の集中力は、どこへ行ってしまったのか。

これを「歳のせいだ」「もう頭が衰えた」と結論づけるのは、少し待ってください。私は、原因は別のところにあると思っています。

一つは、脳が疲れていること。私たちは毎日、スマホから膨大な情報を浴びています。短く、速く、刺激的な情報に慣れた脳は、長くて静かな文章に向かう「筋力」が落ちている。これは衰えではなく、使っていない筋肉がなまっているだけ。読めば、少しずつ戻ります。

もう一つ、「先へ進みたくない、閉じたくなる」という感覚には、別の理由があるかもしれません。じっくり読むと、本は時々、こちらの奥深いところに触れてきます。忘れていた後悔、見ないようにしてきた本音。それを刺激されるのが怖くて、無意識に本を閉じたくなる。

もしそうだとしたら、閉じたくなる本ほど、あなたにとって読む価値のある本なのかもしれません。それは能力が落ちたのではなく、本があなたの核心に近づいている合図です。

これは、モーニングノートの話とよく似ています。書いていて「もう書くことがない」と手が止まった、その先に本音が出てくる。読んでいて「閉じたくなる」、その一歩先に、出会うべき言葉がある。書くことも読むことも、逃げたくなる場所にこそ、大事なものが隠れているのです。


何から読めばいいか——「図書館で、何でも」

では、集中力が続かない50代が、どうやって読書に戻ればいいか。あの青年が拓海君に言った言葉が、実はいちばんの答えだと思います。

「図書館に行って、何でもいいから読み始めてごらん」

ここには、大人の読書再開のコツが、いくつも詰まっています。

選ばない、決めない。「何を読むべきか」で悩んで止まる人は多い。でも最初は何でもいいのです。表紙が気になった、タイトルに惹かれた、それで十分。名作を選ぶ必要も、役に立つ本を選ぶ必要もありません。

通読しようとしない。一冊を最初から最後まで読み切らなきゃ、という思い込みを捨てる。5分でいい。1ページでいい。合わなければ、途中でやめていい。積んだままの本があってもいい。読書は、義務ではないのですから。

短い本を、繰り返す。集中力が続かないなら、分厚い一冊を最後まで、と気負わないことです。短い言葉が詰まった本を、少しずつ、何度も読み返す方が、今の私たちには合っています。一回で理解しなくていい。むしろ、時期を変えて読み返すと、同じ一行が前とは違って響く。何度でも戻れる一冊が手元にあること、それ自体が、静かな心の支えになります。

そして図書館なら、お金もかからない。合わなければ返せばいい。これほど気楽な始め方はありません。もし読んでみて「これは手元に置きたい」と思う一冊に出会えたら、その時に買えばいいのです。

ちなみに、学ぶことそのものの意味については、50代の学び直しの記事でも書いています。読書は、その一番手軽な入口でもあります。


結論:本を読むことは、一人でいて、一人でない時間

読書は、一人でする、孤独な作業に見えます。

でも、本当はその逆かもしれません。本を読んでいるとき、私たちは著者と対話しています。もう亡くなった人とも、会ったことのない人とも、時代を超えて言葉を交わせる。マスターは『道をひらく』を通して松下幸之助と対話し、父の思いを受け取り、そして今、その言葉を黒板に書いて、この店の客に手渡しています。

本を読むことは、一人でいて、一人でない時間なのです。

拓海君は、あの青年から本を受け取りました。青年は、かつての自分を救った読書を、次の世代に手渡した。そしてマスターは、父から受け取った一冊を、今も黒板の言葉として、静かに手渡し続けています。

あの黒板の言葉を、もう一度。

「自分には自分に与えられた道がある」

その道は、誰かが教えてくれるものではありません。でも、本のページのどこかに、その道を照らすヒントが、ぽつんと置かれていることがある。50代の今からでも、遅くはありません。集中力が続かなくてもいい。一冊を読み切れなくてもいい。

明日、図書館に寄ってみませんか。何でもいい、気になった一冊を、手に取るところから。その一冊が、あなたに与えられた道を、そっと照らしてくれるかもしれません。

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